Stories
【neighborhood物語(前編)】
ビジネス最前線を離れ、福岡へー 。neighborhoodをスタートさせた二人のこれまでとこれから

取材・文:神代裕子/写真:前田耕司
大学卒業後、東京や海外でキャリアを積んできた山本遼太郎と堀内壮太。ビジネスの第一線をひた走ってきた二人が、ふと立ち止まり、地方都市・福岡に軸足を置いて「neighborhood(ネイバーフッド)」として活動を始めました。「neighborhood(隣人)」という名前が表すように、程よい距離感と関係性を大切にしながら、地域やそこで暮らす人たちと関係性を構築し、社会システムをDIYしていくーーー。スケールやスピードを追い求めてきた彼らが、なぜ東京を離れ、地方で新しい挑戦を始めたのか。二人に、その理由を聞きました。(後編はこちら)
就活の最終面接が出会い。刺激し合える関係だった
―お二人は互いを「壮太くん」「遼太郎くん」と呼び合っていますが、昔からのご友人だったんですか?

山本遼太郎(以下、山本) ぼくらは就職活動中に知り合ったんですよ。外資系企業の最終面接ですごく待たされて、思わず隣の人に話しかけたら、それが壮太くんでした。聞けば、アメリカから帰ってきたばかりで、しかも「官僚になるか、民間に行くかで悩んでいる」という。面白い人だなと思ったのを覚えています。
堀内壮太(以下、堀内) 当時外交官になる気満々で、そのために留学もしていたんですよ。でも、留学先で知り合った人からコンサルタントという職種を教えてもらって、興味を持って。それで、民間も試しに受けていたところでした。
ぼくは人見知りするタイプなので、突然声をかけられて驚いたのは記憶に残っています。でも、遼太郎くんは今までに会ったことのないタイプで、とても面白かった。それで、後日一緒に食事に行きましたね。
山本 当時、大学時代のぼくはいわゆる“パリピ”だったので、壮太くんとは真逆のタイプでしたね(笑)。
ぼくは父が経営者だったこともあり、いずれは自分も経営者になりたいと考え、“経営者輩出企業”と言われるP&Gに入社しました。それで、卒業後は本社がある神戸に、壮太くんはマッキンゼーに入ってドイツへ行ったのですが、メールしたり帰国のタイミングで会ったりして、ずっと近況報告をし合っていたんですよ。
お互いにビジネスの世界にのめり込んでいた20代
―それぞれ、どのような仕事を経験してきたんですか?
山本 P&Gでは、マーケティング部で商品企画や戦略立案など、全部に携わっていました。でも、若いうちにもっと泥臭いことに取り組んでおかないと、将来自分で経営する足腰が育たないと思って。それでリクルートに転職して、飛び込み営業を1年経験しました。
その後、社長交代のタイミングで次期社長の秘書になって。社長のすぐそばで事務局として立ち回りながら、1兆円企業の組織づくりを見せてもらったことは、すごく勉強になりました。それから、リクルートが立ち上げたコーポレートベンチャーキャピタルで、世界中を飛び回って将来性のあるベンチャー企業を見つけて投資する仕事をしていました。

堀内 遼太郎くんから報告を受けるたび、いつも成果を出していたのですごく刺激を受けていました。ぼくは反対に、非常に抽象度の高い仕事から始まっている感じですね。企業のトップマネジメントが抱える経営課題などをブレイクダウンしていって、ファクトを積み上げてロジカルに戦略を立てたり、オペレーションをどう回すかを考えたりしていました。
でも、マッキンゼーは社内営業が大変で。外資系は新卒を育てる文化がないので、自分でプロジェクトリーダーに売り込まないといけなかったんです。最初は自動車のプロジェクトに入れてもらったのですが、いきなり韓国に行くことになって。プロジェクトに入れてもらっても、結果を出せないと次は誘ってもらえないので必死でしたね。
山本 壮太くんも新卒入社でドイツ赴任ですからね。すごいなあと思っていました。壮太くん、マッキンゼーは、3年で辞めたんだっけ?
堀内 本当は、マネージャーになるくらいまでいたいと思っていたんだけどね。プロジェクトによって幅広いジャンルを経験できて、知的好奇心も満たされるし、グローバルで様々な人と仕事ができるのも楽しかったし。
一方で、1つのプロジェクトが3カ月程度と短期なので、自分たちの提案によってクライアントがうまくいったのかわからなかったんですよ。できればぼくは結果を見届けたいし、ある程度コミットして進めたかったから今の仕事の仕方を続けていいか悩んでいたんです。そうしたら、知人のご縁もあり、もう少し中長期で投資先にコミットし、日本企業のグローバル化を応援できそうな投資会社のKKRへ転職しました。当時、まだ日本での投資先は1つもなかったので、日本での1号案件に関われたのはラッキーでしたね。遼太郎くんは、ぼくがそうこうしている間にソフトバンクに転職していたよね。
山本 そうそう。孫正義さんに声をかけてもらって。ソフトバンクでは、社長室の戦略企画チームのリーダーとして、ペッパーや半導体のアームの買収などに携わりました。ここで「時価総額経営ってこうするんだ」というものを見せていただきました。
立ち止まったのは40歳前。「これからどうしていきたいか」を考えた
―お二人ともまさにビジネスエリートといった経歴ですが、なぜ方向転換することにしたのですか?

山本 ぼくの場合は、経営者になりたいと思いつつ、目の前の面白そうな異動や転職に進んでしまっていたので、そろそろ自分の登る山を決めようと思って。それで、「これからは世界的な動向や日本における事業の意義を踏まえると、これから本格化する高齢社会に対応するために、医療インフラを再構築することが極めて重要」と考え、33歳の時に医療業界に入り、試行錯誤しながらビジネスを作っていきました。
これまで様々な経営者の側で見てきたから、どのように事業を作って経営していくべきかはわかる。だから、高い目標とアスピレーション(大志)を掲げ、そこから戦略を逆算して最短距離の最大成長できる組織を作り上げ、そして、それを牽引するためのトップリーダー像を演じる、ということを実践したわけです。
堀内 一流の経営者の側で、その動きを見てきているからできちゃうよね。
山本 うん。でも、途中でコロナ禍になり、医療だったので本当にハードな時期もあって……。その中でも成果を出し続けていった結果、少し鬱っぽくなってしまったんです。それで、自然の多いエリアにワーケーションに行って回復を図ることにしました。
当時は40歳前だったかな。東京から離れたことで「このままだと40代でエネルギーが枯渇してしまうんじゃないか? このまま走り続けていて本当いいのか?」と立ち止まって考え始めたんです。家族との時間も全然取れていなかったし、このままだと良くない方向に行きそうだぞ、と。それで、まずは本格的に東京から離れようと思い、自然が多くて東京に出やすいエリアに移住することにしました。
―それが福岡だったんですね。
山本 ええ。そうして物理的に東京から離れる準備をしているうちに、「会社を手放そう」という気持ちになっていきました。転職や起業の経験はあったので、一から新しく始めることへの怖さは全然なかったし。糸島の自然の中で過ごすうちに、今後自分はどうしていきたいのか、何を大事にしていくべきかを考えられるようになったんです。
―堀内さんは何がきっかけだったのですか?

堀内 「このままでいいのかな」と思うようになったのは、実は遼太郎くんよりぼくの方が早かったんですよ。35歳の頃かな。
ぼくの原点は、地元で市会議員をしていた祖父で。祖父の葬儀に地元の方々がたくさん来て惜しんでくれている様子を見て、「ぼくも地域や国の役に立つ仕事がしたい」とずっと思っていたんです。だから、マッキンゼーでもKKRでも、自分としてはその大義を持って働いていたつもりでした。関わった日本企業に頑張ってほしい、自分がその後押しをしたいと思っていたし、そういった仕事も一定できていたと思います。でも、ファンドは金融リターンを最大化するのが目的。もちろんそれも大事なことなのですが、それが目的化してしまうことで、したかったこととずれてきているのを感じていたんです。それに、人口減少の一途を辿る日本で、金融資本主義の成長を求め続けることが本当に正解なのかとも考えるようになっていました。
地方都市・福岡だからこそできることを考え始めた
山本 壮太くんがそんな話をし始めた頃、ぼくはまだ社長業を突っ走っていたので、正直なところその気持ちはわからなかったんですよね。でも、心には残っていた。だから、全部手放して、これからの世の中を考えつつ何を大事にして育んでいこうかと考えた時に、壮太くんの話を思い出したんですよね。それで壮太くんに会いに行っていろいろ話したんです。

堀内 そうだったんだ? 麻布で一緒に食事をしていた時に、遼太郎くんが経営していた会社を辞めて九州に移住する話を聞いて。ぼくも地方で何かしたいと思っていたから、「福岡、いいかも」って思ったんですよ。
ぼくが地方に興味を持っていたのは、グローバル資本主義ではなくて、もっと手触り感のあることを、コミュニティー運営的なことも含めて関わっていきたいなと考えていたから。学生時代に思っていた「地域の役に立ちたい」というところに、振り子が戻ってきた感じです。
山本 それで、「お互い忙しかったから、これからの社会の変化の見通しや、本当に価値があるものは何かをしっかりインプットしないとね」と話して、課題図書などを決めて読書会を始めたんですよ。インプットを変えないとアウトプットも変わらないので。社会システム論や、今後100年の社会について書いた学者の本なども読みました。
堀内 やはり、それまでと違う山に登ろうと思うと、これまでの延長線上にはないと思うんですよね。それで、社会学者の宮台真司さんやクルミドコーヒーの影山知明さんなどの本のほか、ミヒャエル・エンデの『モモ』のように、古典的でかつ、大事な概念について書いてある本とかも読みました。そして半年ほどかけて、読んだ本の感想をシェアし合ったり、著者や関連する人に二人で会いに行ったりしました。でも、その時は別に、一緒に何かしようと話していたわけではないんですよ。
山本 そうそう! お互いキャリアも違うし、考えていることも違うから。インプットと理解を深めていくための対話の相手みたいな感じでした。
―「自分探しのパートナー」といった形だったんですね。

山本 まさにそうですね。そうした過程で、「福岡に移住するなら地域の役に立ちたいし、何か始めよう」と思うようになりました。歴史上でも、大きなイノベーションは中央から離れたところから起きているし、九州はアジアの入り口で日本のGDPの10分の1程度の規模を持ち、独自に成り立つ社会経済基盤を備えている。また、そこには人的コミュニティも育まれています。ここなら、手触り感のあるマーケットや社会システムを構築できるのではないかと思うようになっていたんです。
堀内 日本は東京の一極集中がすごいですよね。ぼくは横浜出身で東京も嫌いではないけれど、東京のモデルが地方に移って、「ミニ東京」が各地にできていっても面白くないと思っていたんです。
地域にはその地域の良いものや人が存在していて、過去から現在、未来へと繋がっていくものがある。それらを生かして、現代的にアップデートして、より魅力を引き出せないかなと思って。そういったことに取り組むなら九州っていい場所だし、そこで事例を作っていけたら日本の進むべき方向が見えてくるのではないかと思ったんですよね。
山本 そういう話をしているうちに「北部九州あたりを見据えて、何ができるかを一緒に考えていくのもいいんじゃない?」と、neighborhoodの構想が急速に前に進んでいったんです。

(後編につづく)

やまもと・りょうたろう 山本遼太郎
東京都世田谷区/国立市で生まれ育つ。慶応大学卒業後、P&Gマーケティング、リクルートの人材領域/経営企画、SoftBank社長室に従事。その後、訪問看護ソフィアメディ社長就任。社員300名から1,200名までの成長を牽引。関連法人併せ2,000名ほどの医療職採用に携わる。2021年にソフィアメディの社長を退任し、福岡県糸島市に移住。2022年に旧友の堀内壮太と共にneighborhoodを設立。複数の企業や事業の立ち上げや運営に携わりながら、北九州市の官民連携ディレクターも務める。趣味は、体を動かすこととおいしいものを食べること。

ほりうち・そうた 堀内壮太
神奈川県横浜市で、祖父母や両親に囲まれて生まれ育つ。ミシガン大学アナーバー校・政治学専攻、東京大学法学部を卒業後、マッキンゼーに入社。日本やドイツ、インドなどで、グローバル企業の戦略策定、経営改善などのプロジェクトに従事。その後、投資会社のKKRに参画。インテリジェンス、パナソニックヘルスケア、Pioneer DJ、日立工機などの投資/親会社からの独立に関わる。40歳を前に、これまでのビジネス中心の世界とは異なる山を登ることを決意し、KKRを退社。スタートアップ企業のCFOなどを経て、山本遼太郎と共にneighborhoodを設立。携わった企業のCFOの他、北九州市市政変革推進員なども務める。現在は、仏教や東洋哲学にハマっている。